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東京高等裁判所 昭和30年(う)1566号 判決

控訴人 原審弁護人 清水胤治

被告人 金子いそ

弁護人 清水胤治

検察官 金子満造

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金五千円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人清水胤治作成名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、これここに引用し、これに対して次のとおり判断する。

原判決が、罪となるべき事実として、「被告人は沼田市坊新田千二十六番地に於て特殊飲食店入沢を営業している者であるが(一)昭和二十九年六月下旬頃児童であるHことA子(昭和十二年十一月九日生)を接客婦として雇入れその年齢を確認することなくその頃より約十日間右店舗に於て男客を取らせて淫行せしめ(二)同年六月下旬頃児童であるB子(昭和十二年一月十日生)を接客婦として雇入れその年齢を確認することなくその頃より約二ケ月間右店舗に於て男客を取らせ淫行せしめたものである。」との起訴状記載の公訴事実どおりの事実を認定判示した上、児童福祉法第三十四条第一項第六号、第六十条第一項、第三項本文等を適用して、被告人を罰金五千円に処していることは、所論のとおりであつて、所論は、右原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認及び法令適用の誤がある旨主張するにより、案ずるに、右原判決の判示事実は、すべてその援用する証拠によつてこれを肯認することができるのである。しかるに、所論は、被告人は、原判示児童らを雇い入れるに際してはその年齢につき、相当の注意を払つているのであつて、過失がないのであるから、被告人の本件所為は、児童福祉法第六十条第三項但書により、罪とならない旨主張するのであるが、なるほど、記録に徴するときは、原判示二名の児童各本人及びこれが周旋人たるEらが、いずれにも被告人に対し、各本人の年齢を偽り、十八才以上である旨を告げていたこと、特にB子については、その父までが被告人に対し、B子の年齢を偽つていた事実の認められることは、所論のとおりであるし、又、各本人の体格や風貌等も所論のとおりであつたことが窺いえられない訳ではないけれども、しかし、単に体格や風貌のみによつて人の正確な年齢を知りえないことは、論を待たないところである上に、児童を接客婦として住み込ませようとするような場合には、その周旋人はもとより、児童本人もまた、右周旋人の示唆等により雇主に対して年令を偽わり、満十八歳以上であるように装うことは、世上一般に行われるところであり、又、児童の保護者たる父母といえども、児童に客を取らせることを容認するような場合には、その雇主に対して、児童の年令を十八歳以上の如く偽装することもまた必ずしも稀有の事実ではないのであるから、単に、その体格風貌等が十八歳以上に見え、且つ、児童本人及びその周旋人が(前述のような場合には児童の親も)十八歳以上である旨を告げたからといつて、更に進んで、戸籍抄本等につき、正確な年令の調査をすることなく、児童に淫行をさせた場合には、児童福祉法第三十四条第一項第六号の違反罪が成立するものというべく、同法第六十条第三項但書の児童の年令を知らないことにつき過失のない場合にはあたらないものといわなければならない。所論は、原判示A子の場合には、本人がHと偽名していたものであり、当時十八才以上であつたHなる婦女子が渋川市に実在していたのであつて、たとえ、被告人において戸籍照会の手続をしたとしても、十八歳以上であるとの回答をえたに過ぎなかつたであろうから、戸籍の調査は、必ずしも必要でない旨主張するのであるが、しかし、戸籍抄本等によつて、正確な年令の調査をしたにもかかわらず、なお且つ、戸籍の誤謬その他の原因等により、正確な年令を知ることができなかつたような場合においてこそ、始めて、所論のような児童の年令を知らなかつたことにつき過失がなかつた場合にあたるものというべきであるばかりでなく、弁護人の控訴趣意書に添附されている戸籍抄本の記載に徴するときは、もし、被告人において、戸籍の調査を行い、該戸籍抄本を入手していたならば、Hなる者の生年月日が昭和三年十月十三日であり、本人らのいう年令と甚だしく相違する等の点より、偽名の事実までも発見されたかも知れないような情況にあつたことが窺われるのであるから、児童の年令を知るにつき、戸籍の調査が不要であるとの所論は、到底これを採用することができないものといわなければならない。

しかして、原判決挙示の証拠によれば、被告人は、原判示二名の童児に対しては、その体格・風貌等により、各その本人及び周旋人らの言(B子についてはその父の言をも)を軽信して、十八歳以上であると考え、更に進んで、戸籍抄本等により、正確な年令の調査をしようともしないで、右児童らに原判示のような淫行を行わせたものであることが認めえられるのであるから、原判決が、被告人に過失がなかつたとの被告人及び弁護人の主張を排斥し、前示証拠によつて原判示事実を認定した上、これに対して、児童福祉法第三十四条第一項第六号、第六十条第一項等を適用処断したことは正当であるというべく、原判決には、経験則並びに採証法則の違反は認められず、記録を精査検討してみても、原判決に、所論のような判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認及び法令適用の誤があることを発見することができないから、論旨は理由がない。

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 中西要一 判事 山田要治 判事 石井謹吾)

弁護人清水胤治の控訴趣意

第一点原判決は「十八歳未満なるA子及びB子を接客婦として雇入れその年令を確認することなく、男客を取らせて淫行をせしめ」と認定して被告人を罰金五千円に処した。然れどもこの判決には事実の認定及法律の適用を誤りたる点があるので破棄さるべきものと信ずる。其理由は、

一 原判決に於て接客婦として雇入れるに当つては児童保護の見地から其者が十八歳未満であるか否かに付細心の注意を払う可き義務があり、其為めには少くとも其ものの戸籍証明を取るとか、戸籍役場に照会するとか、移動証明を取るとか、其他確実な身分証明の方法を講じ云々、又渋川市役所に電話するなり、其保護者に連絡するなりして云々、と説示せらるるも被告人としては相当の注意を払つている。先づ其雇入れについては世話人のEも本人であるA子もB子も何れも十八歳以上なりと陳べ、又A子もB子も身体の発育状態が十分十八歳以上と認めらるる、ものであつた。(E、A子、B子の供述調書参照)同人等供述調書によると巧みに被告人を欺罔して信用せしめている、全く被告人は詐欺にかかつたものである。本件に限らず詐欺さるる場合には信用せしめられるのが蓋し当然で盲信に陥るのである。前三者の供述調書からどうだまされたかを拾つてみると、Eの昭和二十九年十二月十四日付調書中(七)A子さんの年のことですが御話によると満十七歳だとの事ですが私には昭和十一年二月生れだと云つて居たので私は入沢え行つて十八歳だと云つた訳です。云々、

同人に対する同日付調書中(二)この時おかあさんがB子ちやんに年を聞いた処、十九だと云つて居たので私の方からは別に何も云いませんでした。云々、同月二十一日付調書中(四)金子いそがA子に幾つですかと訊きましたら十九歳だと答へておりました。云々

同人は沼田の錦寿司に姉が居るとかでよかつたら働くと云うので翌朝連れて行つて前同様に世話をしてやりました、年は昭和十一年の二月生れだとか金子いそと其主人の久保さんに述べておりました云々と供述して居り、A子の昭和二十九年十二月二十二日付調書中(五)清水は私に、年を云うな年を云うと俺が危いとか、ぱくられるから二十才と云えと云はれ連れて行かれた、云々、私は其頃失恋してやけを起して居たので接客婦でも仕方が無いと思いました、云々、主人から住所、氏名、年令を聞かれたので名前は本名でないあやふやな名前を云ひ年は二十才、住所は渋川市坂下町と申しました、云々と供述して居り、B子の昭和三十年一月十四日付調書中(三)お母さんから住所や名前や年令等種々詳しく訊ねられましたが、私はEちやんから年が足らないとうまくないから嘘を云う様に云はれて居りましたので住所と名前は正直に話しましたが、年の事は嘘を言つて、その時口から出まかせに云つてしまいました、云々、(四)A子も年が足らない為にHと云う全然嘘の名前で働いて居りました。A子もEちやんの紹介で入沢に来たので、EちやんからAさんを呼ぶのに本当の名前を云つてはいけない、お店の方へはHと話してあるから、その処を上手にやるようにと云はれて居りました、云々、(七)私が入沢のお店から逃げましたのは、お店のお母さんに歳を嘘を云つて置いたのがばれそうになつたのでこれはまづいお母さんにも申訳がないと思つて夜十二時頃こつそり裏口から抜け出て同町内の岡田さんと云う知人の処え行つて、云々、と供述して居り、虚言を以て被告人を欺罔していたものである。尚原審公判廷に於ける証人B子の供述によると同人が被告人から年令をきかれて二十才以上と答えたこと、A子には既に堕胎手術まで受けて居る程に成熟して居たるものなること、被告人方にてCと云う女を世話されたが、年令の点で使用しなかつたことが認められる。被告人に対する警察員に対する供述調書によると根岸二三代の身許を調査して年の足らないことを発見して使用しなかつたこと、HことA子については「私が住所、氏名、年令を尋ねました処、住所は渋川市坂下町でHと云ひ年は昭和九年生だと申しました、それで、同人の言うことを信用して役場に身元照会もせず、云々」とあり、又「EがB子と云う女を連れて来て接客婦に世話して呉れました、同人は数え年二十一才だと申しましたので、身許照会もせず雇入れて一、二日働きました処、其親が迎に来て一旦帰りましたが、又逃げて来、其親も後から私方に来てB子がどうしても帰らないから一つ面倒を見て呉れ丁度母が病院にて入院して居り娘を一人でおくのも心配だ年は早生で心配ないと云うので其の云う事を信用し其まま二ケ月働らかせました」とある如く相当注意をしていたものであつて等閑に附していたものでなかつた。

二 児童福祉法第六〇条第三項は児童を使用する者は児童の年令を知らないことを理由として前二項の規定による処罰を免かれることができない、但し過失のないときは、この限りでないと規定して罪責の有無を決している。即ち不注意によつて年令を知らなかつたとしても罰を免れることは出来ないし、法は知らざることにつき過失のないときは責任を問はないと規定して限界をおいている。そこで過失なしとは果してどんな場合を謂うものか。普通人の尽すべき注意を怠らなかつた場合に於て、年令を知らなかつたとせば、かかる場合こそ即ち処罰を免れ得る場合であろう。本件についてみるに、先づ被告人の人物であるが、被告人は沼田市の婦人団体の幹部で、指導者の立場にある故処罰せられるが如きことがありては致命的打撃を被むることともなる故、職業柄万一の事を慮り営業につき常に深甚の注意を払つて居るのだから児童福祉法に反するようなことがあつてはならない、若し法規に触るるが如きことありては、一身に止まらず、我子我孫等の名誉にも関するとなし注意して居たものである。先づA子雇入の場合を見るに前からの知合にて信用して居りしEが連れ来り、其者をHと称し、Eも二十才以上だと云う、本人も亦年は二十才だと云ひたるのみならず、尚又見かけも二十才には十分見えるかつぷく、容姿であつた、それでその以上の調査をしなかつたものである。何よりも有力なるものは其人のかつぷくである。次に本人の自告である、其二点に於て疑ふの余地なしとせば、それ以上を求むることは過酷である。かつぷく如何に拘らず戸籍の証明等を要するものとせば一見三十、四十才に見える者でも戸籍を調べなくてはならない、三十、四十と見ることも、十八才、二十才と見ることも同様ではあるまいか。世話人も二十才と言ひ、本人も二十才と称し、見かけも二十才に見えたならば十分であると信ずる。原判決に於ては渋川市役所に電話するなり、其保護者に連絡するなりしてと責めて居らるるも、A子の場合は本人がHと偽名して来て居られるが故市役所に照会したとするもA子の年令は判明しない。何故ならばHは実在の人であるから、同人として十八才以上の女子なることの回答を得るに過ぎないであろう(添付のHに対する戸籍抄本参照)A子の年令は求められない。次にB子であるが、同人も亦Eの世話でB子は体躯堂々たるもので、本人が二十一才と言明しただけであつて優に二十一才にて通用するかつぷくであつた、そしてB子の父も被告人方へ来てよろ敷く頼むと申し、年齢も早生れで心配ないと言ふて居たような事情にてそれ以上の調査はしなかつたものであつた。

右の事情にて原判決の指摘せらるるように其保護者に連絡するなりしてと云ふ点も、既に父からもよろしくと頼まれて居る程故、正確の年齢はつかめなかつたものであらう。

要するに被告人としては払ふべき注意に怠つていなかつた、これ以上を責めることは実情に協はないと思う。特飲店に於ける女中雇入の実情は誠に乱雑のものである。それは朝に来て夕に去る者が多く、今日入つて明日は逃げ出すと云ふ有様であるから身許など調査して居る暇がない、調査の済む時には影が消えている、と言つた調子である。そこで雇主の方でも多少辛棒の出来るかどうかを見定めてから、本式に雇傭契約をするのが斯界の実情であつて、従つて年齢の如きも先づ客観的に十八歳以上と見定めれば、これが一番確実性があるとの業者均しくの訴である。乍併この実情を以て足れりとするものではなく、勿論慎重に調査して万全を期することを弁護人と雖も亦要求することは言を待たない。

三、本件に於ては前叙の如く被告人は常に犯則なからむことに注意を払い居たるもので、特に年齢の点につき注意して居た、然ればこそ、Cと云う娘についてはどうも年が足りなそうなので、其晩直ちに電話にて市役所に尋ねて十八歳に足らないことを知り、接客婦として雇入れなかつた、本件にしても若し年不足の疑を持たば必然市役所へなりと問合せる筈であつた、然るに本件のA子、B子については同伴して来たEも各本人も二十歳、二十一歳と称し、客観的に見ても体格、かつぷく、発育状態、風貌等、各人の申出に合致すると信じ得らるる十分の自信が持てたので、其他の調査を省略し接客婦として雇入れたものであつた。従つて本件程度に於ては、此種業者として過失がなかつたものと言い得らるるものである。十八歳未満の者を雇入れさへすれば法律には過失ないときとの規定あつても、一も二もなく過失ありと認めることは甚だ実情に即しない。児童保護の見地から厳重なる取締は誠に結構のことである、然ればと言つて、白黒紙一重とも云うべき限界に於て刑罰を以つて臨むことは、それも亦慎重ならざるべからず、被告人の場合、弁護人は被告人に過失なきものと確信するも、見解の相違で多少灰色の疑もあらば所謂疑はしきは罰せざるである。罪あるもの九十九人を逸するとも、罪なきもの一人を罰することこそ大凶事であるとは千古の格言である。これぞ刑事政策上得たるものと信ずる。被告人としては罰金の五千円、敢て苦とする処ではないが、悪意のないものである、本件に悪意は問題でないとしても、何等の悪意もなく、自分では十分注意して居た積りでいたものが処罰せらるるに至つては重大なる苦痛である。過失の有無は時と場合と、各人の性格と、環境と、時の事情とにより一概に決し難いものと信ずる、本件に於ては何卒十二分に事実の真相を究めて公正なる裁判を願うものである。過失の点につき鵜呑みにせられざることを特に願うものである。

四、援用する処の訴訟記録及原審において取調べた証拠に現はれたる事実に基き御判断の上原判決を破棄し無罪の判決ありたく尚証拠として、Hに対する戸籍抄本及大畠嘉市がB子に宛てたる書面を添付して被告人が保護者と連絡のあつたことを立証し右控訴の趣意として御願いたします。

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